著者:ダニー・ブラウン
(ニューライフインターナショナルチャーチ牧師)
翻訳:上川 ますみ
編集:浅川 明美

この文章はキリスト教信仰の最も中心となる信条を説明しています。以下の信条の大部分は、人がクリスチャンとなるために必要不可欠なものです。この信条には神性、キリスト、真の神礼拝、人間の霊的状態そして、救いについて含まれています。誠実なクリスチャンである方たちが、この信条の解釈の詳細に関して意見が一致しないこともあり得ますが、それでも重要な論点は守らなければいけません。

次にあげる教義は、救いのために必ずしも必要ではない可能性があります。まず、地獄は救いの論点にはなりません。それは、地獄を信仰することでは私たちの罪の赦しはないからです。しかし、人は何から救われるかを理解することは、非常に重要なことです。また、キリストの再臨と千年王国の詳細について健全な教会で議論されていますが、イエスの再臨は私たちの救いの完成において重要な真理です。最後に、キリスト教の団体の中には、キリストの偶像を作っている団体もありますが、私たちはそのような偶像崇拝を強く拒みます。私たちはそのような人たちはクリスチャンではないとは言いませんが、偶像崇拝は、神にたいする不従順であり、害を及ぼすものだと考えています。

聖書は私たちに真の啓示を与えるものに対して、人は自分自身の私的な直感、経験または倫理論争では神を見出すことはできません。この信条を証明するために、すべて網羅することはできませんが、参考聖句を聖書より引用させていただきました。このキリスト教信仰の基本的概要に同意してくださることを願っています。

神とキリストのご性質

唯一真の神:真の神、キリスト教の神が唯一です。(申命記6:4-5)。私たちが仕える唯一の神の他には神はいません。(イザヤ44:8、45:14,18)。しかしながら、人が神だと信じている力や他の神々に使えるよう影響を及ぼす可能性のある力が存在します。(Ⅰコリント8:4-6)。その力は預言や、将来を予言したり奇跡を起こしたりします。しかし、それらは、真の創造主なる神ではないので、従ってはいけません。(申命記13:1-5)

イエス・キリストは、真の神はどのようなお方であるかを現わしました。(ヨハネ14:9)私たちはイエスとその教えを見るとき、神を理解することができます。それは、イエスは神と共に住まわれていた天国から来られた方であり、(ヨハネ17:5)イエスと彼の父である神とは一つだからです。(ヨハネ10:30,14:9)聖書は、神を目撃し、神を経験した人々の幻や啓示の記録を記してありますが、(私たちはそれらの啓示を信頼しています)イエスだけが、実際に神のありのままの姿を見ています。(ヨハネ1:18)。それゆえ、私たちは、イエスがこの地上に来られた時、完全な父なる神の啓示を私たちに与えて下さったと信じています。私たちはイエスと彼の弟子たちの教えに矛盾するいかなる宗教的教えを信頼せず、唯一真の神の教理に関して聖書の教えから逸脱する啓示を受け入れることはできません。(Ⅰヨハネ4:6、ガラテヤ1:8)

神の本質:神は霊です。(ヨハネ4:24)霊として存在しているので、神は肉体を持ちません。このことが、なぜ神が男や女の人の形をした偶像を造ることを、ご自身の民にお許しにならないかを説明しています。(申命記4:16)イエスは人としてお生まれになる前は肉体を持っていませんでした。なぜなら、聖書には、そのとき“人となって”と書かれているからです。(ヨハネ1:14)神は肉体を持たないので、神が創造された物とは同じではありません。そして、被造物を礼拝することを神は拒まれます。(エゼキエル書8:15-16、ローマ1:25)

神の本質は、神聖であり、愛であり、義、善、正義、公正、真実です。(Ⅰヨハネ4:16、詩篇99:5)神にはうそ、偽り、悪はなく、神のうちには暗いところが少しもありません。(Ⅰヨハネ1:5、民数記23:19)神は惜しみなく愛を注ぎ、神の善意を受けるにふさわしい、ふさわしくないにかかわらず、全ての人に愛をお与えになります。(マタイ5:45、使徒14:16-17)そのうえ、神は決して変わることがない(マラキ書3:6)ので、常に神聖、愛、義、善、正義、公正、真実が神の本質です。またさらに、神は変わることなく、成長することもなく、別の形に変化することもなく、未来においてもずっと変わることはありません。

神は愛です。(Ⅰヨハネ4:8)しかし、神もまた、正義と公正、真実を求められます。神は決して不正をされることがなく、偽りを言うことは決してありません。(イザヤ書61:8、創世記18:25-26、民数記23:19)神はすべての人を愛されますが、人の悪は憎まれます。(詩篇11:5、45:7、イザヤ書61:8)それゆえ、神はその正義によって国と民の両方を裁き、罰をお与えになります。それは神の持つ特性の愛や光の部分でもあります。(詩篇9:8-12、Ⅰペテロ4:5-6、詩篇110:6、イザヤ書2:4、黙示20:1-15)

人は心の中にある神の律法に関する多少の知識を見せることがあるかもしれませんが、(ローマ2:14)人には限界があり、また罪の影響があるために、自分自身の想像や理屈で神の真の人格を理解することはできません。(Ⅰコリント1:18-21、イザヤ書55:8-9、ローマ3:12)その結果、道徳や義に関する人間的判断を信用することはできません。(Ⅰコリント4:3-4、ローマ1:21)

人が“愛の神”がすることについて説明しようとするとき、自分自身の勝手な間違った考えをもってしまう人たちもいます。ある人達は、愛の神は、人の悪を罰することなどしないと神の罰を否定します。しかし、イエスは公正な罰は、神の性質の一部であることを教えました。(マタイ25:41)

私たちは聖書の教えによって神の性質を知ります。イエスは言われました。「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。」(ヨハネ3:34a)初代教会のリーダーはキリスト本人より訓練されたので、使徒ヨハネは初代教会のリーダーの教えを聞くものは真理を受け入れるものであり、彼らの教えを拒むものは神から出たものではないと書きました。(Ⅰヨハネ4:6)それゆえ、私たちは個人的な意見によって神の教理を作り上げることはできません。しかし、神の性質を理解するために私たちは、聖書の教えに献身しなければいけません。

神の象徴:唯一真の神は、偶像や他の神々また、他の宗教で表現することはできません。

神は霊であり(ヨハネ4:24)何の制限も、姿形もないので偶像によって神を表現することはできません。(出エジプト記20:4、申命記4:16)神は、私たちが偶像を拝むことを禁じています。偶像礼拝は神の品格を制限し、私たちが物質的世界に焦点を合わせることをすすめるからです。御父なる神やイエスを想像して造る偶像でさえも罪であり、イエス、御父なる神、聖霊を礼拝するのに偶像を使ったクリスチャンの記録は聖書にはありません。もちろん、マリヤや使徒たちまた、他の人間の偶像を造って礼拝することはありませんでした。

さらに、イエスを通してでなければ、他の宗教やいかなる手段を使っても神のもとにいくことはできません。(ヨハネ14:6、使徒4:12)事実、人が他の宗教の神々に仕えるとき、特に偶像に仕えるときに悪霊が偶像礼拝を促します。偶像礼拝は本質的に悪霊崇拝と同じです。(申命記32:17、Ⅰコリント10:19-21)

神の御名:神は、一つの名、ジェホバによってのみご自身を明らかにしました。ジェホバの意味は、“わたしはある”または、“わたしはあってあるもの”です。(出エジプト記3:13-14)イエスという名前出さえも、実際“ジェホバは救う”意味の名前を短くしたものです。
イエスをヘブライ語では“イェシュア”と発音されます。イェは、ジェホバの短縮形で、そして、シュアは、救うという意味です。御父なる神とイエスはともに同じジェホバの名前をもっていることになります。

私たちは、神の聖なる御名を敬うように教えられています。(出エジプト記20:7)事実、ほとんどの聖書翻訳者は、御名を尊ぶがゆえに書面上は、ジェホバの名前を使うことはせず、代わりに“主”と聖書の本文には表記してあります。

神がモーセにご自身の聖なる御名を明らかにした後、モーセに戒めをお与えになりました。これらの戒めは、神の聖なる性質を現しているため、ジェホバはとても神聖という非常に明瞭な性質をもつ神を連想させる名前なのです。
他の宗教の人々は、私たちが尊ぶことのできない、異なる名前をもった神々に仕えています。(詩篇16:4)私たちは他の宗教の人々は神々の名前が違うだけで、私たちと同じ神に仕えているのだと言うことはできません。これらの神々は異なる道徳と異なる人格を持っているので、異なる名前を持つ、異なる神々なのです。

聖書の神は、他の神々の名前を口にすることさえ厳しく禁じています。(出エジプト記23:13)他の神々の名前を呼ぶことは他の神を礼拝し、私たちの神を拒絶することだと考えられていました。(ヨシュア記23:7、申命記11:16-17)使徒ペテロは、イエスの御名以外に私たちを罪と死から救う名前はないと宣言しました。(使徒4:12)

三位一体:神はただひとりです。(申命記6:4)しかし、三つの人格が存在しています。すなわち、父なる神(ジェホバ)、子なる神(イエス)、聖霊なる神です。(マタイ28:19)それは「われわれのかたちに、人を造ろう。」と神が言われたとおりです。(創世記1:26)
これは私たちが完全に理解できない奥義ですが、私たちは三位一体の神を受け入れることができます。

父なる神:御父、すなわち神は、唯一でありますが、三人格のなかで優位な人格です。(ヨハネ14:28)イエスや聖霊も同じく神と等しい人格ですが、父なる神が、“神”としての名称を持っています。(ヨハネ17:3)それと同時にイエスは“神の子”あり、(マタイ14:33)聖霊は“神の霊”(創世記1:2)という名称を持っています。父なる神の御名は“わたしはある”または“あってあるもの”という意味です。この御名は神の存在がすべてを超越し、存在する万物の源であることを示しています。御父は様々な呼び名もあります。ジェホバ・ラファ(癒し主)、私たちを備えてくださる存在であることを示す、ジェホバ・ジャイラ(備え主)です。(出エジプト記15:26、創世記22:14)

人は神の幻を見ることがあるかもしれませんが、父なる神の臨在はあまりにも力強いので神を直接見て、なお生きていることはできません。(出エジプト記33:20)イザヤは、非常に力強い神の幻を見ました。しかし、その幻はイザヤに罪深さを感じさせ、自分が死ぬのではないかという恐れを与えました。(イザヤ6:5)父なる神の聖なる本質は、罪ある私たちを、神の直接の臨在で焼き尽くしてしまうほど、不道徳な私たち人間には、とても圧倒的なものです。聖書のことばにあるように、“私たちの神は、焼き尽くす火です。”(ヘブル12:29)

聖霊なる神:聖霊は、この世にある、見えない神の臨在です。今日もこの世にあって活発に働かれ、世の初めからいつもこの世界に存在しています。(創世記1:2)聖書の一節で聖霊は、神の御霊とキリストの御霊と呼ばれています。(ローマ8:9)例えて言うなら、人間の霊魂は人の一部分であり、人の外側にはありません。ですから、神(父なる神)の御霊も御父とともにおり、御父の外側にはないことを私たちは知っています。そして、キリスト(子なる神)の御霊はキリストとともにおり、キリストの外側にはないことも知っています。
さらに、イエスはこう言われました。“わたしが父におり、父がわたしにおられること”(ヨハネ14:10)そして、“わたしと父は一つです。”(ヨハネ10:30)よって、御父と御子と、聖霊はすべて一つなのです。

聖霊は私たちを神の真理に導くので、“真理の御霊”と呼ばれています。(ヨハネ16:13)預言者や使徒たちに神のことばを語ったのが、聖霊です。(Ⅱペテロ1:21、マルコ12:36)さらに、聖霊は聖書を記す時、導きました。(Ⅱテモテ3:16)聖霊もキリスト教のメッセージを教える者を通して語ります。(Ⅱペテロ1:21)聖霊は、人々の心に働き、イエスを信じることができるように導き、内側の霊的生まれ変わりをもたらします。(テトス3:5)聖霊は人がクリスチャンになると、その人たち全員の心の中に移動し、彼らの内に住んでくださいます。(ローマ8:9)そして、愛や喜びそして、その他の神の特性を与えてくださいます。(ローマ5:5、Ⅰテサロニケ1:6)

子なる神:イエスキリストは、完全な神であった方であり、今も神であられる方です。(ヨハネ20:28)子なる神の本質は、御父と聖霊との区別がつきません。(ヨハネ10:30、ヨハネ4:24)イエスは神の御子です。イエスは神から生まれ(ルカ1:35、ヨハネ3:16)ゆえに、イエスの本質は神の本質です。イエスは父なる神より生まれたので、造られたものではありません。人間の息子、娘は、文字通りそれぞれの親(精子と卵子)の一つの結合から造られるので、こどもは完全に人間であり、半分だけ人間になったり、下等な種類になることはありません。同じように、イエスは神本人から来られた真の神の御子であり、御父のように完全な神なのです。(ヨハネ5:18)“ただひとり子”ということばは、(ヨハネ3:16,18)しばしば、“ひとりの授かった子”と訳されますが、ギリシャ語の原典は実際“モノジーン(Monogenes)”“Mono”は、ひとつ、ひとりという意味で“genes”は、誕生と生成という両方の考えに関連しています。この言い回しは2回、聖書の中のたったひとりの子どもを持つ人を表現するために使われています。(ルカ7:12、へブル11:17)イエスは神のひとり子です。それは神の子どもである人間や御使いがイエスと同じような意味での神の子でないという事です。イエスは、自身の父が神であるように、イエスも同様に完全な神なのです。

他にもたくさんイエスが神の御子である聖書的証言があります。次にあげる二つの聖書の個所が最も容易に理解できる証言です。1.ヨハネの福音書1章1~3節、14節では、イエスが“ことば”として呼ばれており、黙示録19章13節ではイエスのこの名称が反復されています。ヨハネはこう書いています。“はじめにことばは神であった。ことばは神とともにあった。”これは、時のはじめからでさえ、イエスは神であり、イエスは神とともにいたことを示しています。2.ヨハネの福音書20章28節では、イエスが死からよみがえられた後、トマスの前に現れ、癒された手の釘の跡をトマスに触れさせました。その時トマスは、“私の主、私の神”と叫びました。イエスはトマスの口から出たこのことばを拒みませんでした。それとは対照的に、使徒たちは、神としてあがめられることを拒みました。(使徒14:15)
イエスは御父より生まれましたが、イエスはいつも存在していたのでその生涯のはじめはありませんでした。(へブル7:3)イエスの神性を唱えた意見書として、多くの教会が認めているニカイヤ信条は、“イエスはとこしえに御父より生まれた”と説明しています。
これは、御父が存在する限り、イエスは御父と一つの本質を持つ御子であるが、異なる人格を持ち、そしてそれは御父から永遠に生じていることを示しています。
イエスが聖霊と御父と一つであると同時に、聖霊がイエスに入られた事でイエスと聖霊が区別されています。(ヨハネ1:32)さらに、イエスは御父に祈りを捧げていました。(マタイ11:25)そして、御父に従われました。(ヨハネ14:31)それは、御子と御父と区別があるものの、明白な役割と人格を持っていることを示しています。これは、昔からの三位一体の見方です。御父、御子、そして聖霊は、本質的に一つでありながら、それぞれ明瞭な人格を持たれているということです。

受肉について:イエスは栄光と想像を絶する光に満ち、無限の霊として天に住んでいました。しかし、イエスは神としての栄光を捨て、人としてこの地上に生まれて下さいました。(Ⅰテモテ6:16、ヨハネ17:5、ヨハネ1:14)イエスは処女より生まれたので、(ルカ1:34-35)イエスの父は人間ではありません。それでも、イエスの肉体は一人の女性の体内で形造られたので(Ⅰテモテ2:5)真の人間です。イエスは完全な神であり、完全な人なのです。イエスはご自分を神と人との完全な仲介者として認めています。(Ⅰテモテ2:5)、その後、イエスは以前と同じ天の栄光の中に帰っていきました。(ヨハネ17:5、6:62)それはイエスが神であり、この地上に住まわれた時に、私たちに神の性質を完全に現わしたからです。(ヨハネ14:9)

イエスは人として、肉体を持って歩まれました。(ルカ24:39)それは、私たちの身代わりに罪の代価を支払うために人間の体を持って死なれる必要があったからです。使徒ヨハネの時代、グノーシス主義派の宗教教師たちが教会に入り、イエスについて教えました。彼らは、イエスが肉体を持ってこの地上で生きたことを否定しました。この教師たちは、自分たちの教えを確証させるような夢や預言を語ることさえありました。しかし、ヨハネは人としてのイエス本人とともに生活し、この教えが間違っていることがわかっていたので、私たちに次のように警告しました。“愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。”(Ⅰヨハネ4:1-2)

イエスは神であり、また人として地上に来られました。(ルカ24:39)私たちと同じように肉体を持って生活しましたが、(ルカ24:39)イエスには何の罪もありませんでした。(へブル4:15)これまでに、この地上に生きた人間で、神の完全な姿を見たことのある者はいません。それゆえ、どんな方法であれ、誰も神を見たことがないことを私たちは知っています。(ヨハネ6:46)聖書に出てくる聖者や御使いでさえも神として礼拝を受けることを拒みました。(使徒14:11-15、黙示19:10)そして、神はそのような礼拝を受けようとする者を罰します。(使徒12:22-23)神は偽りを言うことも、罪を犯すこともないことを私たちは知っています。(民数記23:19)けれど、すべての人間は罪を犯しました。(ローマ3:23)ですから、私たち人間は神でも、神の一部でもありません。私たちの存在の一部に、神の痕跡や神の本質もないことを私たちは知っています。

人間の罪と有罪判決

全ての人間は神の聖なる律法を破り、罪を犯しました。(ローマ3:23)その罪の結果、私たちは一度の人生をこの地上で送り、そして死ぬのです。(へブル9:27)この地上での行いが神によって裁かれ、ひとりひとりが罪ゆえに永遠の死の宣告を受けるようになりました。(ローマ6:23、ヨハネ3:36)もし、イエスを信じる信仰によって救いを受けなければ、永遠の死に定められます。(ヨハネ3:36)

神が人に対して行う有罪判決は、公平で正しいものです。それは、人間が魂の奥底から罪深く、また神の助けを求めず、善い行いをすることも神を探し求めることもしないからです。(ローマ3:10-12)あなたは、人間は、基本的には善であると聞いたことがあるかもしれません。ですが、聖書には、私たちの内にある罪ゆえに、本質的に人には善が住んでいないと教えています。(ローマ7:18)私たちは神に似せて創造されたので(創世記1:26)気高く見えたり、善く見える行いもしますが、神は預言者エレミヤを通して“人の心はとてもあざむくもの”だと語られました。(エレミヤ17:9)私たちの根底にある姿勢は目には見えないので、私たちは自分たち自身を的確に判断することはできません。(Ⅰコリント4:3-4)コリント人への手紙第一13章3節では、こう書いてあります。“たとい私が持っているもの全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。”プライドや重要だと感じたいために、正しい行いをすることはできます。または、罪意識から逃れようとして、良い行いをすることもできます。人間の愛は清くありません。事実、家族愛のある家庭でも、家族の誰かが裏切れば、それが急に憎しみに変わってしまいます。比較的まだ罪を知らない子どもでさえ、その心には悪の種があります。(詩篇51:5)親にとって、自分の子どもが姦淫、大酒のみ、婦女暴行、人の噂話、自己中心な大人に成長しない保証は、どこにあるでしょうか?このようにして、戦争や卑劣な犯罪は、私たちの魂のうちに深く根付き、そして私たちは罪がある者として有罪判決を受けるのです。

全ての人は罪を犯し、その罪のゆえにすべての人が永遠の死を負わなければいけません。永遠の死とは、本質的に神と神の善と愛から分離されることです。この分離が暗闇と痛みの結果をもたらし、聖書で表す“永遠の火”を経験することになるのです。(マタイ8:12,25:41)マタイの福音書7章23節では、イエスは最後の審判の時、“わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。”と、多くの人に宣言します。私たちは、地獄は神から離された人々がいるところだと理解することができます。マタイの福音書25章30節でイエスは第ニの死について“役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。”と、このように表しています。地獄は神の臨在から離れた暗やみの場所です。泣いたり、歯ぎしりしたりするのは、痛みと悲しみと後悔に対する反応です。ペテロの手紙第二2章17節(新共同訳)ではその場所を深い暗闇と呼んでいます。テサロニケ人への手紙第二1章9節に、 “そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。”と、 書かれています。神の愛と光がないのなら、暗闇は当然の事です。神の愛から離れて置かれた結果は、暗闇と痛みと後悔です。福音とは、イエスは永遠の死から私たちを救うためにこの地上に来てくださったことです。

キリストのあがないの死

キリストが地上に住まわれた時、ご自身が十字架上で殺されることをお許しになりました。(マタイ26:52-54)地上の全ての男、女の罪を背負ってイエスは、十字架にかかり、死なれました。(Ⅱコリント5:21、ローマ5:6)イエスは全ての罪から自由の身でした。しかし、あなたや私の罪のために犯罪者として扱われました。その結果イエスは、私たち全ての罪のために罰を受けて死なれました。このように、イエスの死は身代わりの死となり、私たちに代わって死なれたのです。この行為によって、イエスはこの世の罪の赦しを備えてくださいました。(ローマ3:23-25、使徒20:28)教会の礼典の一つに、イエスのからだと血を象徴するパンとぶどうジュース(または、ワイン)にあずかる聖餐式があります。それはつまり、私たちの罪のためにイエスのからだは辱めと拷問を受け、殺されたからです。イエスは私たちに天の新しいからだを備えるため苦しみ、死なれました。イエスは死ぬとき、血も流されました。(ヨハネ19:34、マタイ26:28)神がモーセに生き物のいのちはその血の中にあると説明されました。(レビ記17:11(新共同訳))そこで、イエスの血は私たちのために与えられたイエスのいのち、そのものであったことが分かります。イエスのからだといのちは私たちの代価として本当に与えられました。罪と死が私たちを捕らえており、その代償は私たちのいのちで支払うことでした。しかし、イエスが私たちの身代わりとなり、自らのからだといのちをもって、その代価を支払ってくださいました。(マタイ20:28、へブル9:15)それゆえ、私たちは、しばしば、キリストの血によって買い取られたと言うのです。神は、神ご自身の御子によって私たちを買い取ってくださるほど、私たちを愛してくださってからは、今や私たちは神のものです。

イエスは御父が言われた通り、死後、墓よりよみがえりました。(マタイ28:6)イエスは“死者の中から最初に生まれた方”と呼ばれています。これは、より多くの人たちが死からよみがえることを意味しています。(コロサイ1:18)事実イエスは、イエスに従う人たちに、イエスの死が成し遂げられたので、信じ従うすべての人たちも死からよみがえり、神とともに永遠に栄光のうちに住まうことを約束してくださいました。(マタイ28:6、ヨハネ11:23-26)

救いとキリスト信仰

イエスが自らの死をもって備えて下さった罪の赦しと永遠の命を得るために、私たちはイエスとその教えを信じなければなりません。(ヨハネ3:36、5:24)具体的には、御父、御子、御霊の神、唯一、真のキリスト教の神を信じなければなりません。さらに具体的に言えば、神の御子、イエスを万物の主であることを信じなければいけません。(ヨハネ12:44、ローマ10:9-11)私たちは、すべてのものの主であり、人として住まわれ、私たちの罪のために十字架でその代価を支払って下さったイエスを信じなければなりません。また、命を乗り越える力を得るために、肉体を持って墓からよみがえった救い主を信じなければなりません。(ローマ10:9-11、Ⅰテサロニケ4:14、Ⅰコリント15:14)このイエスを信じることによって、人は神から永遠の命と罪の赦しを得ます。それは、しばしば“救い”という簡単なことばで、言い表されています。(Ⅰペテロ1:9)

イエスへの信仰が私たちを救うのであって、私たちの働きや行動で救われるのではありません。しかしながら、私たちはイエスこそ万物の主であることを心から信じ、その教えに従いたいと願うようになると、イエスが私たちの罪のために死ななければいけなかった本当の理由は、私たちが神の律法を破ってしまっていることだと、わかるようになります。そして、私たちがこれらの罪を神に告白して、悔い改めることによって、神の聖なる律法に従おうとします。(Ⅰヨハネ1:9-10、マルコ1:15)キリストを心から信じるすべての人は、罪を悔い改めます。そして、ついに信じた後、キリストに対する私たちの信仰の象徴として、バプテスマを受けなければなりません。

めぐみ対行い

神のみ、正しくありつづけることができます。そして、人間は決して自分の努力で正しい行いをすることも、義を獲得することもできません。(ローマ7:18、3:20)それゆえ、イエスにより備えられた義と救いは、神の恵みの賜物として純粋に私たちに与えられました。(エペソ2:8)神のあわれみによって、神のメッセージを伝えるクリスチャンたちを、神が私たちのもとに送られる時に、それが現れます。(ローマ10:17)それから、私たちがそのメッセージを聞く時、私たちが信じられるように手助けをするために聖霊が私たちの心の中に信仰を置いてくださいます。(エペソ2:8、Ⅰコリント3:6)悪人は神を求めないのに対し、善人は神を求めるので、クリスチャンになることができる、とは言えません。(ローマ3:9-12)そうではなく、すべての人が悪です。ですから、神のあわれみによって、イエスへの理解と信仰を与えられることによって、私たちが引き寄せられない限り、神のもとに行くことはできません。(ローマ3:11、ヨハネ6:44)そして、イエスを信じたことへの応答として神が、私たちを救って下さるのです。(ヨハネ3:36)

真のクリスチャンは、罪を悔い改めなければいけませんが、熱心なクリスチャンだけが天国に行けるとは、私たちは教えてはいません。(Ⅰコリント3:1-3)悪い罪を犯したり、また、くり返して罪を犯してしまうクリスチャンでさえ、イエスへの信仰のゆえに天国へ行くことができます。(Ⅰコリント3:12-15)イエスへの信仰をもって従いつづけても、わずかに従うだけでは天で受ける報いもわずかです。(Ⅰコリント3:13-15)さらに悪いことは、罪で心をかたくなにすることによって私たちの信仰の危機をまねき、中にはあまりにも心がかたくなになった為、イエスを信じることをやめてしまう人がいることです。(へブル3:12-13)

悔い改めによる信仰のあかし

罪からの悔い改めは良い行いの姿勢として考えられています。私たちは良い行いをする人が天国に行けるとは言うことはできません。しかしながら、もし人が本当にイエスを信じる信仰を持っているなら、罪を悔い改めようとします。(Ⅱテモテ2:19)従順は信仰のしるしであり、不従順は不信仰のしるしであります。(へブル3:12,18-19)罪から離れ、愛と義の人生を生きることは、イエスが教えた第一の、最も中心的なメッセージです。(マタイ4:17,5:43-45)それゆえ、クリスチャンになるための手順をふむとき、もし、真剣に罪を悔い改めないなら、キリストのメッセージを本当に理解していないことになり、そのような人はイエスへの信仰を持っているとは言えません。

しかしながら、神の恵みにより、信仰のみが私たちのうちに救いを生み出します。(エペソ2:8-9)私たちは、救いを生み出すためには、信仰と罪の悔い改め、そして、適切なふるまい方次第だと言うことはできません。つまりそれは、もし、私たちの心に罪が一つでもあれば、神の律法をやぶり、罪ある者とみなされるということです。(ヤコブ2:10)それでは私たちが完全に悔い改めていないことになります。もし、私たちが救いのために信仰に加えて悔い改めに依存しているなら、私たちの悔い改めが完璧である時のみ救われることになります。いったい、どの時点で私たちの心と体からあらゆる罪の痕跡が根こそぎにされたと、私たちは確信を持って言うことができるのでしょうか?エペソ人への手紙2章8節、9節には、私たちは行いによらず、恵みのゆえに信仰によって救われる、と書いてあります。そこには、私たちの行いが本当に高いレベルである限り、恵みのゆえに信仰によって救われる、とは書いてありません。それゆえ、私たちの心は安心します。私たちは、誘惑に陥った時でもさえも、天国に行く確信を持つことができます。なぜなら、キリスト信仰を持ち続けているからです。

こういうわけで、私たちは熱心に悔い改めますが、救いを得るために、決して悔い改めに依存しません。これに反して、悔い改めは真の信仰に対する自然的な応答であり、その信仰のあかしを私たちに与えるものであり、(Ⅰヨハネ3:18-19)そして、私たちの信仰を完成させ成熟させるものです。(ヤコブ2:22)

バプテスマ

イエスは、クリスチャンとしての人生を歩み始めることを表す行為はバプテスマであると決められました。水の中に浸ることにより、私たちは死を行動で表わします。(ローマ6:4、コロサイ2:12)なぜならば、それは、私たちの死によって、最終的に罪と恥から解き放たれるからです。イエスは私たちを愛するがゆえに、私たちに代わって死んでくださいました。バプテスマによって、イエスの死を自分自身の死として認識するのです。
水の中へ入る!イエスを介して、あなたは死に、あなたの罪と恥は消されました。
水の中から上る!イエスのようにあなたは新しい人生、永遠の人生へと上ります。しかし、その新しい人生では、イエスのやり方、新しい生き方をしなければなりません。そして、死をもたらした以前の罪深い生活様式を拒絶しなければなりません。

救いはイエスを信じることによってのみ来るので、私たちの行いでは救われません。(エペソ2:8)しかしながら、信仰は目には見えず、測ることができないので、人の心の中に何があるのかを知るために私たちは、その人のふるまいに頼ります。(ヤコブ2:18)神は、人の心に信仰があるのを示すしるしとして、バプテスマの行為を決められました。(マルコ16:16)人がバプテスマを受ける前でさえも、その人がイエスを救い主であり主であることを信じた瞬間に、信仰によって救われます。(使徒10:47-48)しかしながら、真にイエスを信じた人は、促されているかのように、バプテスマを受けるのですが(使徒2:38)バプテスマを拒否する人々は、彼らの信仰のあかしを示しません。それでは、彼らがクリスチャンであることは確信することはできません。

もし人が、バプテスマを受けないと決めたなら、神がその人をクリスチャンのいる近くに置かれたとしても、その人は、真に救うことのできるキリスト信仰を持っていないことになります。それゆえ、パウロがクリスチャンになったばかりの時、アナニヤがパウロに『さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』(使徒22:16)と、言ったのです。

死からのよみがえり

イエスが十字架で死んでから三日の後、イエスは体をもって死からよみがえりました。(Ⅰコリント15:4、ルカ24:39)イエスに従ってきた人々は、彼の墓は空であることがわかりました。ある人々は、イエスの弟子たちが、イエスの死体を隠して、私たちをだましたのだと主張しました。しかし、ヨハネを除くイエスの弟子のすべては、彼らの信仰のため殉教していきました。人はうそだとわかっていながら、命をかけることはしません。そうです、イエスの弟子たちは本当にイエスが墓からよみがえったことを信じていたのです。そして、イエスがよみがえられた後、イエスに会い話をしました。

マリヤがイエスの体にすがりついたことからイエスが霊ではなく、体をもってよみがえられたことを私たちは知っています。(ヨハネ20:17)イエスは食べ物を口にし、体に入れました。(ルカ24:43)イエスの弟子たちは彼の体にさわり、イエスが死んだ時に受けた傷を見ました。(ヨハネ20:27)み使いたちが、いつかイエスが同じ有様で、再びこの地上にもどって来られると語っているうちに、その体でイエスは天に上げられました。このことは、イエスが体をもって戻られるということを、意味しています。(使徒1:11)

イエスに従った人々も、世の終わりに死からよみがえり、神によって与えられる新しい天上のからだをもって永遠に生きるのです。(Ⅰコリント15:35-49)しかしながら、天上のからだがどのような形なのかは、わたしたちにはわかりません。(Ⅰヨハネ3:2)それでも、そこでは結婚することがないので、この地上の生活様式とは違うものであることがわかります。(マタイ22:30)また、そこには悲しみもないところです。(黙示21:4)特に重要な事実は、そこには死もないことです。(黙示21:4、ヨハネ11:26)これは、恐怖にさいなまれて生きている人々にとって大きな安心であり、やすらぎの源となります。(へブル2:15)

このすばらしい死からのよみがえりは、イエスが再びこの地上に来られるその日に起こります。その時、イエスを信じてすでに墓に眠っている人たちは、死からよみがえり、空中で主と会い、地上でまだ生きている私たちは、雲の中に引き上げられ主に出会い、その時一瞬にして、あたらしい天上のからだに変えられます。(Ⅰテサロニケ4:16-17)

イエスの再臨

ある日、イエスは地上に戻られます。(Ⅰテサロニケ4:16-17)イエスが来られる時、神としての完全な栄光を現します。(ルカ9:26)その時、イエスが、炎の中にみ使いたちを従えてと突然来られるのを、私たちは見ます。(Ⅱテサロニケ1:7)それは、何気なくぼんやりと見とれるような、好奇心をそそる光景ではありません。それは、人々が真理にたいして心を開く時であり、また人々の罪が示されて悲しみ嘆く時であります。(黙示1:7)しかし、イエスを信じる私たちは、私たちの罪は消されることを知り、完全な神の栄光を喜び楽しむ日なのです。事実、イエスが“栄光の望み”と言われているのは、私たちに、完全な信じがたいほどの喜びに満ちた神の栄光のうちに生きるようになる日が来るという望みを備えてくださったからです。(コロサイ1:27)その栄光は、私たちの心を喜ばせる愛に満ち満ちています。それは、永遠に続く、清い義に満ちています。(詩篇111:3,Ⅱコリント9:9)

イエスがこの地上にはじめて来られたときは、地上の人々を救うために来られたのであり、さばくためではありません。(ヨハネ3:17)しかし、イエスが再び来られるときは、義とさばきをもって来られます。なぜなら、人々は、その日、イエスの栄光を見るからです。その栄光とは、“焼き尽くす火”である御父の栄光です。(使徒17:31)

人類は罪という負い目を抱えているがゆえに、さばきの座で正義の前に立つことはできません。(マラキ3:2)そのとき、神は多くの大きな罰によって、この地をさばき、多くの人々を滅ぼします。それでも、神は、全世界を滅ぼすことはしません。多くの人々を生かしておきます。(黙示14:20)しかし、私たちクリスチャンは、罪の赦しがあるので、この地上における最終的なキリストの御怒りから逃れることができるのです。(黙示3:10)

キリストはそのとき、この地上を支配する権威をもち、キリストに従った人々と共にこの地上に住む人々を、千年間治め、地上に完全な平和の時期をもたらします。(黙示20:4)キリストがこの地に住み、千年間治めた後、罪によってのろわれたこの地を、火をもって滅ぼし尽くします。(創世記3:17、Ⅱペテロ3:10-12)この世の初めから生を受けた男、女、すべての人はイエスの前に立たなければなりません。そのとき、各自、地上での人生をどのように生きたかを、申し開きをします。そして、神がそれぞれのたましいの最終的行き先、天国か地獄かを決めます。(黙示19:15、20:11-15)天国が、キリストによって罪を赦された者にあたえられますが、私たちの忠実さによって、報酬の格差はあります。(ルカ19:16-19)また、地獄は、キリストを信じなかった者が罰せられるところであります。なぜなら、罪を覆うものが、彼らにはないからです。しかし、神は、イエスのメッセージを一度も聞いたことのないものには、あわれみをもたれ、軽い刑罰ですむようにされ、キリストのメッセージを聞いても、イエスに従わなかったものは、より大きな刑罰を受けるのです。(ルカ12:47-48)

私たちクリスチャンには、イエスが再び来られる日や時期はわかりませんし、わりだす事もできません。(使徒1:6-7)しかし、その再臨の日が近づいている時、私たちに警告を与えるために、しるしが現れます。(マタイ24:30-33)私たちは、希望と喜びを持って、キリストの再臨を待ち望みます。(テトス2:13)今現在、神は私たちの祈りに答え、私たちの人生を助けてくださっています。しかしながら、私たちは、この人生の富や快楽におぼれて生きるのではなく、(テトス3:3、へブル11:13-16)イエス喜ばすため、イエスの再臨の時、報いを受けるために、私たちは生きています。(Ⅱコリント5:10)

牧師のプロフィール

ダニー・ウォルター・ブラウンは1961年11月24日にアメリカ・オクラホマ州・ノーマンで生まれる。 サウスウエスタン・アッセンブリー神学校に1年半通うが、ガン治療を受けるため故郷に戻り、そこで編入して学びを続ける。 1983年5月8日、宗教学のB.A.を取得し、牧師になる決意と共にウエスタン・ケンタッキー大学を卒業。 その翌日、1983年5月9日、スージー・サマーヴィルと結婚する。 しかし深刻な声帯の問題を抱えていたため、牧師になることはできず、できる限り声を使わない職に就く。

懸命な情報収集と祈りの後、ダニーは、海外でも教えられ、なおかつ自己負担で伝道活動ができるよう、教師の資格をとるべく、学校に戻る。 1987年ESL(英語を母国語としない生徒達のための語学学校)で英語コミュニケーションを教えるためのM.A.(マスター)を取得。 このマスター課程の終わりに、神様の救いのおかげで声が戻り、ダニーと妻・スージーは、1987年日本の大阪で英語を教え始める。

ダニーは、違った環境で教えようと一度アメリカに帰るが、日本に戻る必要性を感じる。 そこで、英語を学ぶ日本人に焦点をあて、ESLで教えられるよう、外国人言語教育を専攻し、Ph.D. (博士号)取得のため勉学に励む。 1996年オースティンにあるテキサス州立大学でPh.D. を取得。 1997年には、家族と共に日本の山梨県甲府市に移り住み、山梨英和大学で英語教授として働き始める。 妻・スージーもまた同大学で非常勤講師として英語を教えている。

1999年、ダニーは、甲府めぐみキリスト教会で英語礼拝の牧師となる。 この英語礼拝が、のちのニューライフ・インターナショナル・チャーチである。 現在ダニーと妻・スージーは、子供達と共に日本の山梨県甲府市に住んでいる。 ダニーは教会のリーダーとして働く傍ら、山梨英和大学で英語教授としても勤め続けている。

クリスチャンの信仰とは

ニューライフインターナショナルチャーチは、どの教派にも属していない独立したキリスト教の教会です。また、プロテスタントであり、
福音の信仰を守っています。

私たちは、下記に示すようなキリスト教の基本となる信仰を持ち、最も基本的なキリスト教の教えを否定するような他の信仰を持っていないのであれば、他の教会(プロテスタントまたカトリック)からの信者も受け入れています。もちろんクリスチャンは、ただ単に正しい理論を持っているだけではなく、個人的な神への信仰と、神と人を愛する事が求められます。

下記では、この教会の礼拝のやり方をいくつか説明するとともに、この教会の牧師であるダニー・ブラウンによる教えの内容が載せてあります。


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